ヒメツルソバ日記

明るい気持ちになった物事を綴ります

外山滋比古著『思考の整理学』を読んで

家の近くのレンタルDVD店では、本屋さんが併設されています。その本屋さんの棚に、『思考の整理学』という本を見つけました。そのような本を探していたはずなのに、一瞬、本のタイトルに身構えてしまいました。そのあと心が軽くなったのは、タイトルの下に外山滋比古さんの名前があったからです。外山さんの書かれた本は何冊か読んでいるだけですが、そのどれもが分かりやすい文章で綴られていて、外山さんの率直な思いが伝わってくるものでした。手にした本もぱらぱらとめくり確かめ、安心して『思考の整理学』(筑摩書房ちくま文庫)を持って会計に並びました。


この本を読み終えてまっ先にしたことは、「思考」の意味を調べることでした。「頭の中であれこれと考えること」(『旺文社国語辞典』)とありました。一度意味を振り返ってみたくなったのは、本の内容が想像以上に多岐にわたっていたからです。その道のひとつひとつに、丁寧に、思索し文章を紡いでおられます。どうして外山さんは、読みやすく、品格のある文章を書くことができるのでしょうか? その問いかけに答えてくれる一冊でした。


「何か考えが浮んだら、これを寝させておかなくてはならない」。と、外山さんはいわれます。そのために、外山さんは手帳を持ち歩き、何かを思いついたら、すぐ手帳に書き留めます。手帳は普通の手帳で、日付やケイ線などは全部無視して、スペースの節約のために細い字で、要点のみ簡潔に書いていくそうです。一つのことを書き終わったら、その下に区切りの線を引いておきます。あとは、この手帳の中でアイディアを小休止させるのです。


ある程度時間のたったところで、手帳を見返します。見返して、やっぱりおもしろいと思えるものを今度はノートに書き替えます。このノートは、ちょっと上等なものです。外山さんは、ケイ線と日付と欄外に英語のことわざが印刷してあるだけの、ある英文日記を使用し、手帳と同じように日記帳のいっさいを無視して書いていくのです。さらに、このノートも寝かせます。


ノートに書かれたアイディアの中で、醗酵して考えが向うからやってくるものがあれば、それについて考えをまとめ、機会があるなら文章にするのだといわれています。このノートだけでなく外山さんは、このノートの中でまだ生きているものや、動き出そうとしているものを活性化させるために、それらのものを、メタ・ノートと呼ばれるノートに転地させるのです。


メタ・ノートも前段階のノートと同じ英文日記帳です。区別がつくように、カバーの色を変えてあります。「メタ・ノートへ入れたものは、自分にとってかなり重要なもので、相当長期にわたって関心事となるだろうと想像されるものばかりのはずである」。そのように外山さんはいわれつつ、ここでも、書き留めてあるので安心して忘れます。そのうちに思考はひっそり大きくなったり、あるいは消えるのだとありました。


外山さんは、自分の楽屋裏を見せるのはいい趣味ではないけれど、こういう本では一般論だけですますことは難しいという理由から、ご自身の手帳やノート、さらにメタ・ノートの書き方を詳しく説明してくれています。


また、外山さんは、ものを考えていて「ダメかもしれない」と思い始めたときは、しばらく風を入れるようにとおっしゃいます。「ダメなのだ」と思い込むことなく、「かならず、できる、よく考えれば、いずれは、きっとうまく行く」そう自己暗示をかけることを勧めてくれます。


それに、自分の考えに自信を持つのと同様に、ほかの人の考えにも肯定的な見方をするようにといわれます。自分自身をダメだと思うのも相当にきついのに、自分以外の人からダメだときめつけられたら、立ち上がれなくなる可能性もあるからです。


そういうことから、考えごとがうまく行かないときは、ひとりでくよくよするのがいちばんよくないとしたあと、人と話すのなら自分をほめてくれる人と会うようにといわれます。そして、批評は鋭いけれど、よいところを見る目のない人は敬遠するのです。


友には、ほめてくれる人を選ばなくてはいけないけれど、人間は、ほめるよりもけなす方がうまくできている、という事実も、外山さんは示されます。それに人には、見えすいたお世辞に受け取られてしまいそうなことを言うためらいもあります。そこで、外山さんはおっしゃいます。朝寝坊した人にも人は「お早よう」とあいさつします。あいさつには文字通りの意味はないのです。ほめるのは最上のあいさつであって、ほめられた人の思考は活発になるのだと。


外山さんは、人とのおしゃべりにおいても、ちょっとした着想などを話すことのないように、あらためて注意を促してくれます。たいしたことではないという反応が返ってきて、アイディアの芽がダメになったり、話したことで自分自身が満足してしまって、それ以上考えなくなるおそれもあるからです。おしゃべりでは、そういったことは話さず、俗世を離れた知的会話のあることを書いておられます。


俗世を離れた知的会話というのは、まずは、身近な人の名前や固有名詞を引っぱり出さないことです。共通の知人の名前が出ると、とかく興味本位のうわさ話になります。つぎに、「……であった」とか「……した」という語り口よりも、「……ではなかろうか」や「……と考えられる」といった言い方のほうが創造的なことが生まれやすいそうです。それに、同業であったり、同じ方面のことを専攻している人同士が話し合うと、話題は悪く専門的になりがちだといいます。


そういったことから外山さんは、気心が知れていて、なるべく縁のうすいことをしている人が集まって、現実離れした話をしているときが、いきいきとした考えができ、話がはずみ、楽しいものであることを書かれています。


ことわざについての記述もあります。ことわざは、どこの国においても、古くから多くのものがあるといいます。人間の様々な経験の中から共通した性質を抜き出して、比較的短い形にし、今後の生き方や考えに役立つようにしたものが、ことわざです。なので、ものを考えるときにも、ことわざを援用することで簡単に処理できる問題もすくなくないのだとありました。


ほかにも、朝飯前の効用を説かれ、眠ったあとの朝の脳を意識的に、一日に二度つくったり、卒業論文を書くために学生さんが相談にきたときのテーマの絞り方や、その後、想を練らなくては書き出すことはできないと話す学生さんへの助言があったりします。また、グライダー人間や飛行機人間など、多くの興味深い記述もあります。


自分の書いた文章のテーマを一文で言いあらわせたら、その中の名詞をとって表題とする。タイトルのつけ方が心に残ります。


今、色とりどりのフセンでいっぱいになったこの本は、わたしの思考の先生です。先生のおっしゃるとおり、考えていることは表面的には忘れていても心の内にあるので、ちゃんと寝て生活のことをしていると、考えはやってくるもの、なのかもしれません。