(①からつづいています)
その晩、帰路についた向田さんは、いつものようにすぐには電車に乗りませんでした。自分の気持ちに納得がいく答が出るまでは、自分の家を目指してどこまでも歩いてみようと決めたそうです。向田さんが当時住んでいた家は、井の頭線の久我山にあり、会社の近くの四谷駅から電車通りを信濃町方向に歩き出し、渋谷駅まで歩いて、そこから井の頭線に乗ったのだといわれます。
このままゆこう。と、向田さんは決めたのでした。それからは、新聞の女子求人欄で見つけた洋画専門の映画雑誌の編集をやり、ふとしたことがきっかけで20代の終わりには、ラジオのディスク・ジョッキーの原稿を書く仕事もはじめたそうです。三年ほどしてラジオの仕事にも馴れたころ、今度は週刊誌のルポライターの仕事がとびこんできたのだといいます。三つの会社から月給をもらう、満足に眠る間もない生活を送られ、あとは、向田さんの感覚でいうと水が納まるところに納まって川になるように、勤めやラジオをやめて、自分が一番面白そうだと感じるテレビ・ドラマ一本にしぼって、今(この「手袋をさがす」はPHP/1976年・夏季増刊号掲載になっています)七年になるのだとあります。
花を活けるとき、枝を、人が思う形に整えようと矯めたとしても、時間がたつと、枝は天然自然の枝ぶりにもどってしまいます。かりに、天然自然の枝ぶりが、あまり上等の美しい枝ぶりといえなくても、人はその枝ぶりを活かして、それなりに生きてゆくほうが本当なのではないかと思ったのだと、向田さんはおっしゃっています。
そして、向田さんはこの「手袋をさがす」という随筆を次のような言葉で結ばれていました。「(前略)若い時に、純粋なあまり、あまりムキになって己れを反省するあまり、個性のある枝を__それはしばしば、長所より短所という形であらわれるように思います__矯めてしまうのではないか、ということを、私自身の逆説的自慢バナシを通じて、お話ししてみたかったのです」と。
この本には、戦争中、工場動員中に旋盤で大けがをした友人のこと、長崎へ疎開して原爆にあい顔中にガラス破片がめり込んでしまった級友のこと、爆弾でうちも親兄弟も吹きとばされた友達もいたことが書かれています。一方で、明日の命も知れないというときに、校長先生が渡り廊下のすのこにつまずいて転んだというだけで、女生徒は心から楽しく笑えるものだということも記されていました。1929年生まれであるという向田さんの随想を読みながら、向田さんより一年後に生まれた、わたしの幼いころに亡くなった父も、若いころは向田さんと同じ時代を生きていたのだと想像しました。
ほかにも、この本には、表題にもなっている「夜中の薔薇」に関連するいくつかのお話があります。また、子どものころや学生時代のこと、1980年に直木賞を受賞されたときのことや、日常のことだったり、旅行記もあります。それに、様々な職業の男性から話を聴いて書かれたエッセイもありました。あと、簡単でおいしい料理のつくり方もあるのです。
60歳をこえても、ああ失敗したなとか、もっとこうすればよかった……などと思う毎日です。そんな中で、自分のことをだめだといわないでおこうと、きめました。自分を見る目と人を見る目は同じだと感じたのです。そして、わたしも天然自然の枝ぶりを活かしたいと思うのです。