ヒメツルソバ日記

明るい気持ちになった物事を綴ります

伊与原新著『宙わたる教室』を読んで ①

「昨年の私のNo.1は伊与原新さん『宙わたる教室』でした‼︎」。今年(2025年)の元旦に届いた年賀状にそう書かれていました。差出人は、大型スーパーマーケットの薬品コーナーに薬剤師として勤務されているY先生です。二十数年前わたしはその薬品コーナーで、午後からのパートタイムの仕事をさせてもらっていました。Y先生が普段おられるのは少し離れた場所にある別の店舗でしたが、ときおりわたしの働くところにも来られていたのです。Y先生は穏やかな方です。それでいて急いでいるふうでもないのに、A4判の資料を手になんということもなく(そう見えました)薬品を並べられ、流れるみたいに売り場が出来上がるのでした。


またY先生には、十年前後にわたって赤毛のアンシリーズ全部の文庫本をお借りしていました。その文庫本にはY先生お手製のカバーがかけられていました。カバーは、箱詰めの上等な和菓子が包まれていたような、紙質で、また緑色や桃色、黄色などのやわらかな色合いによって春の風景のような絵が描かれているものでした。小鳥も飛んでいたかもしれません。わたしにとって赤毛のアンの表紙は、この綺麗なブックカバーです。本をお返しするまでの間Y先生から、もう読んだ? というようなお話は何もありませんでした。


年賀状に書かれていた言葉は、Y先生のご家族、ご主人と二人のお嬢さんとの昨年の、心に残る瞬間を写された数枚の写真とともにありました。忙しい日々の中で丁寧に暮らされているY先生の様子が伝わってきました。そのようなY先生一推しの、伊与原新著『宙わたる教室』(文藝春秋)を、わたしも是非読んでみたいと思ったのです。


都立東新宿高校には、生徒が昼間授業を受ける全日制と、夜間に学ぶ定時制が併設されています。全日制の生徒の完全下校時間は午後六時で、五時半以降は定時制が使っている校舎に立ち入ることはできません。また下校は、正門からではなく裏門から出るように指導されています。無用なトラブルを避けるためです。


定時制の一限目は午後五時四十五分に始まり、四限目が九時ちょうどに終わります。九時から十時までの一時間は、クラブ活動が許されています。一日の授業が四限であるので卒業するには四年必要です。一学年に一クラスである定時制の四つの教室は、校舎の三階にあります。それらの教室は全日制の生徒も使っているので、私物を置いて帰らないというのがルールです。図書館や体育館など、全日制と同じ設備を使えますし、また文化祭や体育祭も催されます。


定時制の一学年の定員は三十人ですが、定員に満たないのが通常で、一年生から二年生になるまでに三割から四割、年によっては半分以上の生徒が退学します。進級できないのではなく、学校に馴染むことができなかったり、嫌気がさすためです。


東新宿高校に通っている一人の青年がいました。青年の名前は、柳田岳人(やなぎだたけと)、二十一歳。ぼさぼさの金髪で、左右の耳にシルバーのピアスを合計十個つけている、定時制の二年生です。岳人は毎日早朝に起き、アパートの最寄駅である新大久保から、北区の新河岸川べりにある会社近くまで電車で通勤しています。会社はビン、空き缶、ペットボトルなどの廃棄物の回収と、リサイクルのための中間処理を行っています。そこでの岳人の仕事は収集車のドライバーとペアを組み、委託を受けた会社やビルのごみ庫を回って事業系資源ごみの収集をすることです。会社の終業時刻は午後四時五十分。岳人は、作業中にひどく汚れたときにはロッカーに置いてある替えの作業着に着がえ、そうでないときは作業服で通勤しているのでそのままロッカーからリュックを取り出し、肩にかけ急ぎます。会社を五時に出て、赤羽駅からJRに乗れば、五時四十五分から始まる定時制の一限目にぎりぎり間に合うのです。


一年前に岳人は、一念発起して高校の定時制に入学しました。昔のように途中で投げ出さないで、教科書を開いて四時間の授業を受け続けていたら、少しはまともに文章が読めるようになるんじゃないかと思ったのです。二年生にはなったものの状況は何一つ変わりません。辞めどきかもしれない、そう思っていた岳人の「文字がつかまらねえ」という言葉に反応してくれた人がいました。ひと月前の四月、この学校の定時制に赴任してきて、岳人のクラスの担任になった藤竹(ふじたけ)です。藤竹はタブレット電子書籍の地学の教科書を表示させ、その文字を少し大きくして、行間を広げ、教科書体の書体をディスレクシアのために開発された書体に変換して、岳人に見せてくれました。驚きすぎて声が出ません。岳人は、そこに書かれていた文章を読むことができたのです。


ディスレクシアは、読み書きに困難がある学習障害です。文章をスムーズに読めないのは、音と文字を結びつけて脳で処理する力が弱かったり、文字の形をうまく認識できなかったりするからだといいます。読めないので書くことも苦手になります。ディスレクシアの中には、藤竹が見せてくれたような特別な書体に変えるだけで読めるようになる人がいるのでした。ディスレクシアであることに誰も気づいてくれなかったこれまでの人生を振り返り岳人は、うなだれて両手の拳を握りしめ、嗚咽しました。


藤竹は三十四歳。色白の顔で、なで肩の見たところ頼りなげなのに態度は堂々としています。ここの定時制において担任は、原則四年間持ち上がるのですが、藤竹は、メンタルの不調で休職したといわれている教師の後任でした。そして藤竹もまた岳人と同じように、毎朝八時に母校である大学の研究室に行き、昼の一時ごろまで研究をしています。一時少し前に大学を出ると、文京区にあるキャンパスから東新宿高校まで地下鉄一本で行けるので、定時制教師の始業時刻、午後一時三十分に間に合うのです。また教員不足に悩む校長は、藤竹が大学で研究を続けられるように、できるかぎり便宜をはかってくれています。午後にセミナーがある木曜日と、どこかの研究集会に出たいときは、夕方からの出勤でよく、それら大学での研究活動を校外研修という扱いにしてくれるのでした。藤竹も二足のわらじを履いているのです。岳人と異なっているのは、昼間の研究が無給であるので、夜間に教師として働いていることです。


越川(こしかわ)アンジェラは四十歳。岳人と同じ定時制の二年生です。新大久保で夫と二人でフィリピン料理の店「ジャスミン」を構えて十二年目になります。アンジェラは、毎日大急ぎで夜のメニューの仕込みを済ませて通学します。大久保通りを東へ向かうと、東新宿高校までは歩いて十分ほどです。アンジェラの夫はアンジェラと同じ、日本人とフィリピン人のハーフで、自身は商業高校を出ていることもあり、妻が高校の定時制に通うのを快く送り出してくれます。栄養士の専門学校に通う娘もまた、母に協力して毎晩店に出てくれることになりました。


そんな家族の応援の中、二年生になったアンジェラは辛い気持ちになっていました。一年生のときには教室の中を歩き回ったり、騒いだりする生徒がいて授業どころではなかったのが、そういう生徒が一人、また一人と辞めていき、二年生になる頃には落ち着いて授業ができる環境になっていました。そうなると、小学校には運よく途中から通えるようになり、中学校に入ってまた学校に行けなくなったアンジェラは、勉強についていけなくなったのです。国語や社会科にも苦労しているけれど、数学と理科に至っては今何を習っているのかもわからないという状態でした。教室で「難しいヨ」と言ったアンジェラに、理数系科目を担当している担任の藤竹は、手を動かして何度も何度も書いていると、そのうちに必ずわかったという瞬間が来る、天才ではないわたしたちがもし本当にわかりたいのなら方法はそれしかないことを話すのでした。


四限目が終わり、帰り支度をしてアンジェラは物理準備室へ向かいました。藤竹から呼び出されていたのです。中間テストの結果についてにちがいないと思いながら、アンジェラが開いているドアを叩き部屋に入って行くと、そこでは藤竹と岳人が味噌汁で積乱雲をつくる実験をしていました。二人の声は実験の感動で弾んでいます。藤竹が岳人と一緒に科学部を立ち上げたばかりでした。身近にある食材や台所の調理器具などを使って地球や惑星で起きている現象を理解しようとしているのだといいます。アンジェラにとって苦手な理科は、自分の周囲にあるものとつながっていました。


名取佳純(なとりかすみ)は、母と姉との三人で目白台の分譲マンションに住んでいます。佳純はこの春に中学校を卒業し、ここの定時制に入学しました。夕方に始まるこの学校へなら自分にも行けるだろうと思ったのです。佳純が初めて過呼吸を起こしたのは、入学してひと月ほど経った授業中でした。パニックになり、失神する直前に保健室に担ぎ込まれたのです。発作はたびたび起きるようになりました。毎日教室へ向かおうと階段を上り始めてはみるものの、すぐに息がしずらくなり心臓の鼓動も激しくなります。目まいをこらえて上った階段を降り、廊下の隅で息が吸えるようになるのを待ってから、保健室へ行くのです。それを何日か繰り返しているうちに教室へはいけなくなり、毎日一限目に間に合う保健室登校になったのです。心と体はつながっているのでした。


薄いカーテンに囲まれたベッドのそばに小さなサイドテーブルがあり、その引き出しの中に色あせた〈来室ノート〉が入っていました。ノートの表紙には〈保健室を利用して感じたことを自由に書いてください〉とあります。最後に書かれていた日付は四年前です。SF小説が好きな佳純は、このノートに大好きなアンディ・ウィアーの『火星の人』風の記録を残すようになりました。『火星の人』は、火星の有人探査ミッションで起きた事故によって、たった一人で火星に取り残されてしまった宇宙飛行士が知識と、工夫と、不屈の精神力で地球に生還するまでを描いたSF小説です。日記の形式で書かれていて、どの節も〈ログエントリー:ソル○○〉と始まるのです。「ソル」は火星における一日のことで、「ハブ」は火星の居住施設、「EVA」は宇宙服を着ての船(施設)外活動です。これらのことがわかると、佳純の書いた、〈ログエントリー:ソル15 ハブで読書。『星を継ぐもの』九二ページまで。EVAなし〉という日記を読み解くことができます。


佳純が引き出しにしまい忘れた来室ノートを、保健室の佐久間から見せてもらった藤竹は、その日記の意味がすぐにわかりました。藤竹は一貫して「天体衝突と惑星の進化」を研究のテーマにしてきました。そんな藤竹もまた、SF小説が大好きだったのです。佳純が前日の記録の下に、今日の分を記そうとページを開くと、そこには藤竹の字で、火星に興味があるのなら、放課後、物理準備室へ来ませんか、と書かれていました。面白い実験をしているというのです。物理準備室の前でちゅうちょしていた佳純を部屋の中に引っ張っていってくれたのは、アンジェラでした。藤竹と岳人、そしてアンジェラは、今日から火星の夕焼けを再現する実験をするのだといいます。「火星の夕焼けは青いんだってよ」岳人の言葉に、思わず引き込まれてしまう佳純がいました。


(②につづきます)