(②からつづいています)
その後、草刈さんは環境にも恵まれ、大きな仕事を次々こなしていかれました。“あまりに華やかに人生が開け、仕事も順調に進んでいくので、徐々に自信がそこはかとない不安に勝り、勘違いをしていったのだと思います”。草刈さんは、このような言葉で20代後半の自分自身を振り返っておられます。たとえば、監督や演出家のやり方に従うというよりも、自分の思ったことをどんどん提案して主張するようになりました。また、それが採用されたりするので、いい気になってしまったというのです。スタッフの中には当然快く思わない人もいたはずでした。
ひとつの現場でよくない評判が立つと、業界で噂が広まるのはあっという間で、目に見えて仕事がなくなっていったとあります。主役であったのが、二番手になり、三番手、四番手、五番手へと下がっていくのです。草刈さんにとっては、頂点を知った後の急激などん底で、余計にすべてがこたえたと書かれています。
そんなときでも草刈さんが堅く心に決めていたことは、何があってもこの仕事だけは辞めないということでした。幼い頃の経済的な苦労が身にしみていたからです。自分が一番稼げる、向いている芸能界のどんなに末端でもいいから食らいついていこう、それが草刈さんの出した結論でした。
先が見えずに不安な状態にいた草刈さんに、テレビのスペシャルドラマで相手役であった女優の若尾文子さんが、舞台に挑戦することを熱心に勧めてくれました。ほどなく草刈さんのもとに、舞台への出演のお誘いがあったのです。
(④につづきます)