ヒメツルソバ日記

明るい気持ちになった物事を綴ります

伊与原新著『宙わたる教室』を読んで ②

(①からつづいています)


NASAの火星探査車、オポチュニティ。オポチュニティは、左右に三つずつ車輪を持ち、車体の前部から真上に長い首がのび、カメラであろう二つの目がついています。先端にはロボットアームを装備し、翼のような形の太陽電池パネルがボディの上面を覆っています。オポチュニティの姿形は鳥のような動物を思わせて、愛らしいのです。オポチュニティの話を藤竹から聞き始めた佳純は、オポチュニティのことを「この子」と呼びます。それに対して藤竹は、ぴったりの表現だといって微笑みました。


オポチュニティは2003年7月に打ち上げられ、約半年間の宇宙旅行を経て、2004年1月に火星に到着しました。エアバッグに包まれた状態でバウンドしながら、小さなクレーターの真ん中に着陸したのだといいます。火星に生命を育む環境があったかどうかを確かめることが、オポチュニティに任された仕事でした。そのためにオポチュニティは、岩石を分析したり、水が存在した痕跡をさがしたりしながら、行く先々の画像を地球に送ったのだといいます。


火星の旅は決して簡単なものではありません。岩だらけ、急斜面だらけのなかで、前輪を一つ失ったり、砂溜まりにはまり込んだり、原因のわからない電力低下が起こることもあります。その度に問題を克服して進みました。砂嵐のときは休眠して、過ぎ去るのをじっと待ちました。設計段階で想定されていたオポチュニティの運用期間は約三カ月でしたが、実際はその予想を大きく超えて、オポチュニティは十四年もの間旅を続けたのでした。太陽電池パネルに積もった塵が、露でうまく洗い流されたり、季節風のおかげで吹き飛ばされたりした、予想外の幸運を生かして、ミッションのスタッフたちはオポチュニティができるだけ長く旅を続けられるように、考えられる限りの努力をしたのだといいます。彼らもオポチュニティとともに長い旅を続けたのでした。


2018年、大規模な砂嵐に襲われ、長時間にわたって日光が遮られたオポチュニティの太陽電池はダウンしてしまします。機能回復ができずに通信は途絶えてしまいました。その後もNASAは信号を送り続けますが、オポチュニティからの応答はありません。2019年2月、八カ月にわたって通信が途絶えていたオポチュニティに最後の信号を送る日がきました。短い信号を四回発信しましたが、応答はありません。「十五年間の任務、ご苦労さま」。そんな言葉とともにマネージャーがミッションの終了を宣言したとき、管制室に集まったこの任務に関わった人たちはみんな泣いていたそうです。


佳純はオポチュニティに勇気をもらったのでした。藤竹もまた、オポチュニティが地球に送った画像の中で、オポチュニティが通ったあとに残った車輪の跡が一番好きでした。その画像には二本の轍が、果てしなく広がる荒涼とした赤い大地の上を小さく蛇行しながらどこまでも続いていました。手前にはオポチュニティ自身の影らしきものも写っています。「この子が、一人来た道を振り返って撮ったんです」。藤竹が言いました。


長嶺省造(ながみねしょうぞう)、七十四歳。長嶺も、岳人やアンジェラと同じクラスです。いつもは教室の最前列、アンジェラの横の席で授業を受けていますが、ここ一週間長嶺は学校を休んでいます。長嶺の妻、江美子(えみこ)が大学病院で、胸に三つほど穴を開けて、そこから小さなカメラや手術器具を挿入して行う胸腔鏡手術を受けたばかりだったのです。


長嶺は妻の病室から、定時制の四限目が終わって物理準備室にいる藤竹を訪ねました。長嶺が妻の手術と、もう数日様子を見てから学校に出てくることを告げると、藤竹は得心しました。そのあと藤竹は、クレーターの形成実験だといって、砂の入った長辺一メートルほどのプラスチック容器に、ゴルフボール大の金属球を二メートルくらいの高さから落とし、砂にできたおわん形のくぼみを見せてくれました。鉄球の質量を大きくすればするほど、あるいは衝突速度を上げるほどに大きなクレーターができます。なので、鉄球の運動エネルギーとクレーターの直径との間には何らかの比例関係があるだろうと考え、そうした関係のことをスケーリング則といいます。スケーリング則を使うと、こんな砂遊びのような実験と天体スケールのクレーター形成とをつなぐことができるというのでした。藤竹はこれを科学部のために用意した実験だといって、長嶺を部活動に誘いました。以前からものづくりなら長嶺さんだと思っていて、科学部に加わってもらえたら、できる実験の幅がぐっと広がるのだと、藤竹は続けました。長嶺は四年前まで金属加工の工場を経営していたのです。ものづくりと聞いた長嶺は、自分でも驚くほど心が動きます。けれど長嶺にはいろいろとやるべきことがありました。


昭和三十九年三月、中学校を卒業した長嶺は福島の炭鉱町に母と妹を残し、専用の列車に乗せられていく集団就職で上京しました。最初の工場で鍋ややかんの修理をし、板金工場では溶接技術を身につけ、ネジの工場で切削加工の修業をしました。その後、特殊なばねを専門に製造する会社の社長にスカウトされ、そこで技術だけでなく、工場経営についても学ぶことができたのです。長嶺と同い年の妻、江美子もまた青森のさびれた漁村から集団就職で東京にやってきたのでした。両親と祖母、そして幼い弟と妹、家族の家計を中学校を卒業した江美子が支える必要がありました。江美子が就職したのは、タイル工場でした。タイルの製造というのは焼き物と同じで、はい土の準備でも釉薬の吹き付けでも、粉やほこりがもうもうと舞います。そういう人の嫌がる持ち場に、責任感の強い江美子は進んで入りました。労働衛生や作業環境という考え方がない時代でした。


藤竹のもとに、入院中の長嶺の妻、江美子からファックスが届きました。病院のコンビニから送られた用紙には、長嶺が考案した鉄球の発射装置の設計図が描かれています。そして江美子は電話で藤竹に、長嶺を科学部に入れてやってほしいと頼んだのです。長嶺自身にもっと高校生活を楽しんでほしいのだと言ってから、病院で科学部のことばかり話している夫は、宇宙や地球にそこまで興味はないかもしれないけれど、何か作ってくれと頼まれたら、お金にならない仕事でも腕まくりして張り切っちゃう人だから、と話したのです。


科学部は顧問の藤竹と、岳人、アンジェラ、佳純、そして長嶺の四人の部員で発足しました。藤竹は部員の発見や提案をいつも、素晴らしいといって受けとめます。そして部員自身で、あるいは部員みんなでやろうとしていることがわかると、ぜひやってみてください、であったり、ますます素晴らしいと言って応援するのです。


夏休みに部員たちは、今年いっぱいかけてやることを考えていました。あるとき佳純が、公開されていた、アメリカの大学作成の火星の精細な3Dマップを辿っていて、一風変わったクレーターを見つけたのです。それはランパート・クレーターというもので、成因にはまだよくわからないところが多い、と藤竹は言います。部員たちは火星にあるクレーターを再現するために、できるだけ火星に近づけた環境をつくろうと考えます。火星の温度はマイナス五十五度、圧力は十ヘクトパスカル以下、重力は地球の〇・三八倍、どれも自分たちの実験室につくることはできないと、藤竹に伝えました。すると藤竹は、東京ディズニーシーにある真下に落下するアトラクションの例を示して、重力を除外した理由がよくわからないというのでした。


調べてみると、確かに無重力や微小重力下での実験は行われていましたが、設備が大がかりなものでした。そこで岳人が軽く計算してみると、〇・何秒かなら、部屋に収まるくらいの装置でも火星の重力がつくれそうだとわかり、とりあえずつくってみることになったのです。ただ部活動のために学校が出してくれるのは年間に一万円で、あとの部費は全員が同じ額を出します。そのために長嶺と岳人は、廃材や不用品、中古の機器をかき集めました。それらの材料を使って長嶺は、熟考し、工夫しながら装置をつくります。そして実験を重ねることで課題を見つけては改良し、あるいは新たに製作します。また岳人のアイディアからどうすればいいのか考えて形にしていくのでした。佳純は衝突させる火山灰にドライアイスを混ぜ込むことを思いつき、ドライアイスの扱い方を知っているアンジェラが、調理器具を持ってきてドライアイスを細かくし、手早く灰に混ぜました。佳純は実験を観察し、記録に残すことを工夫していきます。アンジェラは、人と人とが同じ場所に集まって何かをするときの潤滑油のような存在です。部員たちは条件を少しずつ変えながら何度も実験を繰り返し、データを取っていきました。理論上での数値と、実際に手を動かしてやった結果もまたちがっているのでした。


日本地球惑星科学連合の大会が毎年五月に開かれています。その大会に高校生セッションがあり、そこで発表することを目標にしようと、科学部みんなで決めていました。学会発表に向けて時間を捻出して努力する部員たちも、そして彼らを自分のできることで応援してくれる周囲の人も、それぞれに異なる道を歩んできて、各々の持ち味があり、その働きは、藤竹の予想をはるかに上回っていました。学会での発表が終わり、それに対する賞の発表を待つ間佳純が、自分たちが定時制だからという理由でもしオマケで奨励賞がもらえるとしたら、それはいらないと言うのに対して、岳人は賞状など自分の人生には無縁だと思っていたので、オマケの奨励賞でも別にかまわないのでした。


東新宿高校定時制科学部は、重力可変装置をつくり、火星重力を実現し、火星に特有のランパート・クレーターを再現することによって、教室に火星をつくりました。そして、その成果は教室から宇宙へとひろがっていくのでした。


心に残るのは、一年前に定時制に通っていた元男子生徒が、マフラーの壊れた原付バイクに二人で乗って現れ、定時制の授業中にグラウンドを走りまわっていて、それを注意しに来た藤竹とのやりとりです。元生徒の一人が、お前ら教師が俺たちに何をしてくれたんだと言います。藤竹は口角だけを上げて、我々定時制の教員は、高校生活を一度あきらめた人たちが、それを取り戻す場所を用意して待っているのだと返しました。取り戻せるかボケ、元生徒が言い捨てると藤竹は、ここは取り戻せると思っている人たちが来るところです、そう言い切りました。


また、保健室の養護教諭である佐久間が佳純に話した言葉があります。家庭環境に恵まれていない、佳純と同じクラスの女生徒が、佳純にわたしたちは同類だといって、佳純を危険な行為にまき込もうとしました。それを見た佐久間が、佳純からその女生徒を引き離してくれたのです。そのあと佐久間は、女生徒を気づかう佳純に言いました。あなたも、彼女のことより、あなた自身を救うのよ。自分を救おうとしている人間しか、わたしは手助けできない、と。


人生は自分でつくっていく。たとえスタートがどうであっても、あきらめないで、すこしずつ。人からプレゼントしてもらえるものではないのだろうなあと感じます。


そして、自分の欠点や弱点をありのままに受けとめたうえで、そのマイナスを〇にしようとするよりも、今二くらいあるものを五とか六にしていく努力のほうが楽しいと思うのです。