ヒメツルソバ日記

明るい気持ちになった物事を綴ります

母がおしえてくれたこと

今年(2023年)2月の中旬、車の窓から今まで見たことのなかった風景を眺めることができました。自宅のある町から隣町へ移動するための山越えの道のりで、自動車の走る道路の両側に満開の梅の花が咲いていたのです。


その季節、山を越えて行くその道の脇には、梅の花が途切れることなく続いているのだと知りました。また、梅の花を見るというのは、梅の林を眺めていくことなのだともわかりました。感慨とともに、頭の中にあったのは驚きでした。それは、菩提寺のご住職が、その時季にその土地で目に映る光景を母の戒名につけてくださっていたので、目の前に広がる景色そのものであったからです。


やがて、坂道を下って車が到着したのは、山裾に建つ葬儀の式場でした。葬儀社の方が家の仏間を整えてくれて帰られる折に、わたしと息子二人の三人を車に同乗させてくださったのです。母の通夜までは、まだ少し時間がありました。


母の病気がわかったのは、そのときより8カ月前でした。それより1カ月少し前、背中や脇などがつるように痛く、立ち上がり時にふらつくという母を、家の近くの医院で診ていただいた折には、運動不足という診断でした。のちに、母より2つ年上の伯母からは、どうしてそのときに血液検査をしてもらわなかったのか、と聞かれましたが、診察の際には、そういった検査結果があるわけでもないのに二人して、たいしたことがなくてよかった、と安堵したことを覚えています。ただ、当時の母は夜寝てから朝起きるまでの間に3回か4回ほどトイレに行っていたので、寝不足もあるのだろうと思っていたこともありました。


それからは、母の寝起きの体力のあるときに、布団の上で簡単なストレッチ体操をしたり、台所の流し台につかまってスクワットを10回ほどしたりしました。また、昼食前には椅子に腰かけて、下ろした足の裏の下に電気の刺激によって筋肉を鍛えてくれる機器を置いて、毎日20分余り使用していました。


1カ月くらいすると、母は、背中などの痛みは無くなっていましたが、一日を通して横になるようになりました。もともと、ある程度の年齢になってからの母は、片方の膝関節が外れやすくなり、また心臓も丈夫な方ではなかったので、階段はもとより歩くことが困難でした。そんな母の活動の頼りは自転車でしたが、そのときより4年前に、医師の助言もあって自転車に乗らなくなってからは、だんだんと活動的ではなくなってきていました。そんなこともあって、このまま動かなかったら動けなくなるのではないかと思い、休み休みしながら運動は続けていたのです。


母は食べる量も少なくなってきていたのですが、伯母から、食欲のないときには(ご飯に合わせ酢で味つけした)すし飯なら食べられると教えてもらい、食べられるようになりました。


それから1週間後の昼過ぎ、「心臓がしんどい……」という母と、1カ月前に診ていただいた医院に再受診しました。医師の前の椅子に座るなり血液検査ということになり、その翌日には病院に紹介状を書いて、予約してくださるとの連絡がありました。その2日後に病院で受診し、そのまま検査のための入院になったのです。


伯母から問われた、最初の医院でなぜ血液検査をしてもらわなかったのか、それだけではなく、それ以前の対応にも後悔することはたくさんあります。母の生前にそれらのことを謝ったとき、「じぶんがかしこいと思ってるから、そんなことで後悔するんや。そんなこと思わんかったら気にすることはない」、母からはそんな言葉が返ってきました。


今思えば、母と生活する中で正解を探そうとするより、ちょっとしあわせなことを見つけようとしたほうがよかったのかもしれません。母のできないことや、したくないことをやろうと言うのではなく、母のできることや、したいことを、もっと早くから聞いて(または汲んで)気軽にそれを楽しめばよかったのではないかと、母が目には見えなくなってから思うようになりました。わたし自身にもうすこし気持ちのゆとりあったらよかったなあと……。