人を自分の物差しで測って(心の中であっても)批判すると、その物差しは自分のことも測ってきて苦しくなります。また自分を責めると、人のことも素直に肯定できない気持ちにつながっていくように思います。心には自動でバランスをとる機能が備わっているのでしょうか。
わたしが二歳になる前に父が事故で亡くなったので、母は母娘二人で暮らせるように美容師になろうと上京しました。東京には母の叔父がいたそうです。母の留守の間、わたしは母の実家にお世話になりました。母の父は母が中学生のときに病気で他界していたので、当時母の実家には、わたしからすると祖母と、母の弟である叔父が二人いました。母と四つちがいの叔父は昼間働いて夜定時制の高校に通っていて、もう二歳下の叔父はまだ中学生でした。母は四人きょうだいで、母の姉は結婚して隣町で暮らしていました。
祖母は毎日動き回っていた記憶があります。家族やわたしの世話の他に、親せきの人の力を借りて自分の家で食べる分のお米も作っていました。家からそう遠くない場所には小規模な畑が三つくらいあり、そこで玉ねぎ・にんじん・じゃがいも・さつまいも・大根などの根菜類や、キャベツ・ほうれんそう等の葉物野菜、トマトやきゅうり・かぼちゃ・スイカなど、家で食べる物をほとんど育てていました。
また祖母は、作り物の中では絹さやえんどう、それに春にはワラビ、秋には松茸などを野山で採ってきて、地元の業者さんに買い取ってもらっていました。五右衛門風呂を沸かすために山で枯枝を集めてくることも必要です。祖母が何をするにしても、幼いころのわたしはその後ろをついてまわっていました。
四人きょうだいの末っ子だった祖母は、他のきょうだいからかわいがってもらっていたという話を聞きます。祖母は気持ちが明るく、そしてお出かけが好きな人でもありました。
母と一緒に暮らせるようになったのは、小学校五年生になる春でした。伯母の住む町とは反対方向にある、列車の駅二つめの町で新しい生活が始まりました。家は木造の古い借家で、母は勤めから帰って夜眠るまでの間に、家の中の掃除をすることが日課でした。そんな中でわたしは、毎日忙しく働く母親から「だらしない」などと言われると、目に見えた自分の今の状態ではなくて、人間性を否定されているように感じる子どもでした。母にすれば、流していくことがわからなかったわたしのことをもどかしく感じていただろうと思います。
祖母と母がわたしのことを慈しんで育ててくれたことにまちがいはありません。ただ若いころ、祖母と母がわたしのことをこんなふうに育ててくれたらよかったのに、と思うことがありました。ところが、自分が母となり子育てを経験したあと振り返ってみると、未熟で至らないところが多くあることに気づきました。それとともに、あのころの自分ができることだったのだとも納得します。そのように思ったとき、祖母も母もできるかぎりのことをしてくれたのだと感謝する気持ち以外何も残りませんでした。
また、祖母や母が他の人のことをとやかく言うことがなかったのは、自分という人間のことをわかっていて、がんばるばかりでなく、ちょっとした楽しみや息ぬきを持っていたからではないかと思われます。
自分だけ、他の人だけ、どちらかを特別にたいせつにすることはできないのだと感じます。もともと心の中は、平坦に広がっているのかもしれません。