ヒメツルソバ日記

明るい気持ちになった物事を綴ります

青い山を望む ③

(②からつづいています)


セザンヌは、印象派の仲間と比べて経済的な苦労は少ないものの、父親にすべての行動を釈明しなければならない現実はつらいものでした。


1869年、セザンヌは19歳のモデル、オルタンス・フィケと知り合います。オルタンスは、パリで製本女工をしていました。彼女との間に子どもが生まれてからも、セザンヌの父には2人の存在を隠し続けることになりました。


セザンヌの親友ゾラは、パリで大学受験に失敗したあと、苦労をしながら出版社に勤め、文芸ゃ芸術の批評を書いていたのです。彼は「自然主義」を唱え、1876年に、7作目である『居酒屋』で大成功をおさめました。また、ゾラはセザンヌに対して手厳しい批評をあびせています。大作家となったゾラの変貌を、セザンヌも快く思えなくなっていたとありました。


1886年4月、ゾラから長編小説『制作』が、セザンヌのもとに届きます。この作品は、ゾラが少年時代から現代までを回想したものでした。セザンヌは、無名の画家、クロード・ランティエとして登場します。彼は理想の女性を描こうと苦闘しますが、やがて敗北して自殺するのでした。この本の意図する真相は明らかではないそうです。セザンヌは、形式的な礼状を返し、ゾラとの長い友情は終わったのです。


その後、セザンヌはオルタンスと正式に結婚しました。セザンヌは47歳、息子は14歳になっていたといいます。セザンヌの父は、この結婚をようやく認めましたが、結婚式の数か月後に亡くなりました。父の遺産によってセザンヌの経済状況は好転しますが、夫婦の関係は冷めたものになっていました。セザンヌがエクスで制作している間、妻と息子はパリで過ごしていたのです。


1895年12月、セザンヌに大きな喜びが訪れます。パリで初めての「セザンヌ展」が、若き画商、ヴォラールによって開催され、大成功をおさめたのです。50点の作品を選んだのは、セザンヌの息子、ポールでした。


(④につづきます)